フニャディ・ヤノーシュ (Hunyadi Ja^nos)
(1387?1407頃~1456)

 ハンガリー摂政(1446-1453)。ルーマニアではフネドアラのヤンク公と呼ばれる。十字軍の白い騎士。
 ワラキアの貴族出身。父ヴォイクがハンガリー国王ジギスムントの近衛兵としてトランシルヴァニアのフニャディ城を得たときからハンガリーへ移る。幼時から宮廷で生活し、王の旅行にも随行していたことから、王の落胤という噂もあったらしい。
 1437年、ジギスムントの後に即位したハプスブルク家のアルビレヒトが僅か一年で死ぬと、ポーランド王ヴラディスラフ三世をハンガリー国王ウラースロー一世(在位1440-1444)として迎える。彼のもとでトランシルヴァニア領主、テメシュ侯となり、対トルコ防衛戦での功績などから前例のない御貸地を与えられてハンガリー最有力の領主となった。
 1444年、ローマ教皇エウゲニウス四世の提唱によるヴァルナ十字軍の戦いでキリスト教国連合軍が破れ、国王ウラースロー一世が死ぬと、ヤノーシュは対立するヴラド二世の追及によって作戦失敗の責任を取らされ、会議では死罪の判決が下されるが、それまでの功績によって総司令官を解任、ヴラドらに護送されて領国に蟄居させられることとなる。国王の死によって国内は完全に封建的無政府状態となるが、その中で大貴族に対立する中小貴族に推されて、1446年、国内の混乱を収集するために中小貴族の支持をとりつけて摂政となり、中央権力と国防力の強化に務め、反大貴族、反ハプスブルクの政策を追求した。
 1447年、ヴラド二世打倒のためワラキア公国に侵攻、ヴラドと息子ミルチャは逃亡するが、国内の貴族に捕らえられて殺害される。ヤノーシュはヴラドの後任としてダネスティ家のヴラディスラフ二世を即位させた。更にローマ教皇の支援を受けて対トルコ戦闘を開始するが、敗北。この敗北を機に、トルコ軍に髄軍していたヴラド三世が一回目の即位を行ったが、ヤノーシュは前公ヴラディスラフ二世を支援して追い出している。
 1448年、ハンガリー十字軍を組織。ドナウ南岸を占拠したトルコ軍をセルビア軍などとともに攻撃するが、コソヴォの戦いで敗北する。これによりバルカン半島の大半がオスマン・トルコの勢力下に置かれることとなった。
 1451年、モルドヴァ公ボグダン二世の暗殺によって亡命していたヴラド三世とシュテファン大公はヤノーシュを頼って亡命。ヤノーシュはヴラド三世を側近の一人として迎え、優れた政治家であり軍人であるフニャディの傍らでの生活は、ヴラドにとって大きな経験となったようである。
 1452年にハプスブルク家からウラースロー五世(遺児王)を迎えて自身は総司令官となり、1456年からのトルコの進撃に際し、ベオグラードを包囲した十万のトルコ軍を僅か一万の軍で破った。この勝利によりトルコの中欧進出は半世紀は遅れることになったともいわれる。しかし、自らはペストにかかって死去し、翌年にはウラースロー五世もこの世を去る。
 1458年、ハンガリー王にはフニャディの子であるマーチャーシュ一世(正義王)が即位することになる。